育児は転機ばかりなりけり。5歳児と1歳児を持つ父として思うことである。
大体の人は、子供が産まれた瞬間から、女性は母に、男性は父になると思うだろうが、残念ながらそうではない。私の場合はいくつかの「転機」が父という自覚を持つのに必要だった。
父になる転機
インターネットの育児コラムでは、いかに男性が「使えない」かをおもしろおかしくかき立てたり、問題視するコラムがあふれている。しかし本当にそうだろうか。私は男性は「使えない」のではなく、「やり方がわからない」だけだと言いたい。男性は子供が産まれた瞬間から父にはなれない。育児をしていく中で父になっていく物である。
では具体的に私が父になる転機と感じた出来事を3つ振り返ってみよう。
1)オムツ替え〜オムツ替え大小クリアで、妻を喜ばせたい〜
オムツ替え、他人の排泄物を処理するという、おそらく人生初の作業。小はクリアできたけど、お尻フキを伴う方はなかなか・・・という人も多いはず。私は情けないことにしばらくお尻のニオイを嗅いでから、自分で換えるか妻に替えてもらうかを判断していた。初めて妻に手伝ってもらいながら、子供を仰向けに寝かせ、ズボンとオムツを脱がせ、足を持ち上げ、オムツでお尻をフキ、きれいにしてから新しいオムツをはかせる。一連の動作を達成したとき、一つ安堵したことを覚えている。ようやく父親として一つ階段をあがった、そんな気分だ。
なにより、妻も喜んでくれたのがうれしかった。
そう、もしかしたら初めは「子供のため」ではなく、「妻の喜ぶ顔のため」にがんばっていたのかもしれない。
2)新生児をお風呂に入れる〜可能性を返していく〜
次に印象的なのは、生後2週間の子をお風呂に入れたことだ。ご存知の方も多いと思うが、新生児を風呂に入れるのは大変緊張する。落としたら死ぬのではないか?という不安のなか、ぎゃんぎゃん泣く子の体を荒い、シャワーを浴びせるのはなかなか骨が折れる。私なんかは、初めて入れるときあまりの緊張に頭を支える腕が震えた。
しかしこの経験で間違いなく実感したのは、「命を預かっている」という感覚だ。こんな小さな子どもにも当たり前の命があり、今は儚い存在だけども、無事に育ってほしい、そんな思いが腕の震えに表れていた。そして風呂に入れている今、自分はこの子から命を預けられているんだ、という責任感がま違いなく芽生えた。
しゃべれもしない、何も自分で出来ない子供は、自分の可能性、命を親に預けている状態だ。如何に預かっている可能性を子供に返していくか、それが親の務めなのだ。
3)ミルクをあげる〜命の躍動を感じる〜
最後はどのご家庭でも行っているかもしれないが、ミルクをあげるということだ。我が家は母乳育児のため、父親である私がミルクをあげる機会は2回くらいしかなかった。だからだろうか、強烈な印象を私に残した。
哺乳瓶を持つ手に伝わってくる「んくんく」という躍動感、哺乳瓶を押さえようとする小さな手、その手が「にぎにぎ」動く感触、どれをとっても小さな命が一生懸命に生きている、ということを実感させてくれた。
どんなに夜寝られずに辛くても、この躍動感、感触を思い出そう、この小さな命を大切にしよう、本当にそう思ったし、今でも思っている。
これは転機として振り返るには、あまりにも感動的で、もっと深い部分に訴えてきた出来事だ。もしかしたら、初めて好意を寄せる人と一緒に食事をするという経験に近いのかもしれない。今まで経験がないお父さんは一度やってみてほしい。こんなにうれしい経験ってなかなかないですよ!
最後に〜男ってやつは・・・〜
ここまで自分自身の、子育てにおける転機を記してきた。やはり男性は育児をする中で父親らしいマインドに変化するのだと思う。正直なところ、私自身最初に「子供できた!」とキラキラしながら妻に告げられたとき、戸惑いしかなかった。子供を持つことで自分が負う「責任」という実態のないプレッシャーにやられそうだった。
さらに言えば、産まれてからしばらくは正直妻を取り合うライバルの登場くらいな感覚もあったかもしれない。
でもそれも子供と過ごし、子供の可能性を感じていくうちに、変わっていく。
だから男性が最初から「父」になることは求めないで、少しずつ父になっていくんだよ、ということを理解して頂きたい。